今回から何回かに分けてLIFE VIDEO株式会社の取締役萩本欽一のことを書いてみようと思う。
僕はテレビの演出の師匠をテリー伊藤と萩本欽一と言って来た。
いつからそう言い始めたかは憶えていないが、電波少年をやり始めて雑誌などのインタビューを受け始めた最初からおそらくそこにブレはないはずである。
テリー伊藤とは僕が最初に関わったバラエティ番組「天才たけしの元気が出るテレビ」の総合演出とディレクターとして。萩本欽一とはその数年後、一本立ちして二本番組をコケさせてその後、「欽ちゃんの気楽にリン!」と「欽きらリン530」のメインの出演者とディレクターとして出会っている。メインの出演者と書いたが実際には番組の企画者であり総合演出者を兼ねているのが萩本欽一の番組での立ち位置である。
ここまで番組に出演者が深く関わるスタイルは萩本欽一が日本のテレビバラエティ史で初めてであったろうと思う。
その萩本欽一が日本のバラエティ史唯一の100%男なのである。
(たまに「私は200%だ」とか言う放送作家がいたりするが、これほど事の本質を取り違えて言っている事はないので僕はそれを聞くたびに腹が立つのである)
萩本欽一は自分が企画演出をして一週間に3本の30%レギュラー番組を持っていたのである。これと一週間の関わった番組の視聴率の合計を比較することがいかにバカバカしいことかは普通考えればわかることなのであるから。
たけしさんの番組が視聴率を一番とっていた時代、おそらく正確なデータではないが日テレ「元気が出るテレビ」TBS「風雲たけし城」テレ朝「スポーツ大将」フジテレビ「ひょうきん族」を足しても100%を一週間でとることはなかったのではないかと思う。(正確にはこの4番組が並列であった時代があったのかどうかは夫々がWikipediaで調べていただきたいが)
まあとにかく「一週間に30%番組をレギュラーで3本持っていた」と言うのが日本のテレビ史に燦然と輝く金字塔であることはまちがいなく、この事が今後も塗り替えられることはないだろう。
であるから萩本欽一が日本のテレビに与えた影響は計り知れない。それは「テレビバラエティとは?」と言う定義を変えたことも勿論だが、お笑いとテレビ、タレントとテレビ局、これらの関係も新しく構築し今もその影響下にあるのである。
さてそれでは萩本欽一はなぜそんなことができたのか?ということになるが
ここから次回になるのであります。